昭和40年11月13日 朝の御理解
三代金光様の、御事ですが、昨日、金光青年に掲載されておった記事でございます。金光様が、ほんとに実意丁寧神信心という、権化の様なお方であったということは皆さんもご承知の通りでございますけれども、その、御事一言一言にです、もうほんとに、そういうところが私どもに欠けておるんだな、ということをまあ、感じさせていただくのでございます。あの、御大祭までに、ごだい、あらゆる、御祭祀、全部そうでございましょうけれども、御大祭になりますと、あの、そのお祭りの中心になります、お祝詞のこと。これはあの、祝詞の委員の方達が、書きましてね、偉い先生方が皆集まられまして、金光教の教主として、それにふさわしい御祝詞を、あらゆる角度から検討して、そして、祝詞の作成に当たられるということでございます。その作成いたしました御祝詞を、ちょうど、お祭りの十日前に、金光様のお手元に、お差出を申しあげる。そすと、金光様はその日からですね、5時に、まあ5時過ぎになられます事もありますでしょうが、御神勤を終えられてから、ご自宅に帰られる。そういたしますとですね、それを、繰り返し繰り返し、声を出して、お読みになるそうでございます。それ十日間ずーっとそれを、もういよいよ、ご自分のものになさる為であろうとこう、さあ金光様の、お心は私どもが、その、推し量ることはできませんけれども、まあ、周囲の方たちがそう言うておられますですね。金光様のあの、お祝詞の内容というものが、ご自分のものになさる為に、例えば、読む時に、すらすら読める、読む為の稽古、そんなもんじゃなかろうがと。そのお祝詞の内容というものを、ご自分のものになさる為に、例えばご祭主が、4日間なら4日間にわたって行われます。そすと、その最後の日までなさるそうです。もう、お祭り一回仕えたから、もうこれで、自分のものになった、うとうてしまったといったようなことじゃないですね。2日の御大祭を終えられても、帰られたら、またそれを、お読みになる。しかも声を上げて、それを繰り返し繰り返しお読みになるという、記事が出ておりましたのを頂きましてから、ほんとにあの、金光様の御信心ここのところでなからなければならないなということを、まあ強く感じるのですね。お互いがこうして、朝に晩に信心の稽古をさせていただいて、そして、ほんとに、おかげを頂く為、って言やもうそれまでですけども、やはり何と言うても、信心を頂く為なのですからね。おかげを頂くということではなくてほんとは、信心を頂く為なのですから、例えばこうして朝晩に頂きますご理解ならご理解をです、自分のものにする。私のものにする、と言うことのために、そうした繰り返し繰り返しの精進というか、努力がなされていってもまだ、それでよいと言うことはないのですけれども、自分のものにする為に、私はもう少し本気でです、信心を頂くことの、信心を頂く、信心を自分のものにすると。そのお祝詞の内容をです、自分のものにされる為に、金光様が、繰り返し繰り返し、その、お読み上げになるということからです、感じるのです。ね、私どもが今日なら今日の信心。今日の今日のご理解。その後理解の内容というものをです、言うならば、先生があの中から私に何を分かれと言うておられるかと、何を分からせようとしておられるかと。もうそこのところだけでもいいから、頂かせてもろうてです、それを、繰り返し繰り返し自分の心の中に頂いて、折があるならば機会を得て、家族の者にでも、今朝のご理解はこうだった。夕べのご理解はこうだった、ね、ここんところを私どもがいただかんならんとこじゃもんねと言うて、言葉に出して、繰り返し、私人に伝えていくと言うくらいな精進が、なされていかなければ、自分のもに、信心を自分のものにすると言うことになる、そこの意欲を持っておるならば、そうしなければおられんのじゃないだろうかと私は思う。有難いご理解だった、今日はなら皆さん、帰って、えーっと今日の御理解どういうご理解だったよと、と言うようなこと。ご理解いただいとったけれども、何とはなしに夢うつつであった。今日のご理解どういうご理解だっただろう、人に聞くのも恥ずかしい。まあ、生身でございますから様々な時がございましょう。けれども、そういう時にはです、私はもう一つ、テープならテープになってでもです、今日のご理解を頂かせてもろうて、繰り返し自分の心の中に、頂けれるところまで、信心を自分のものにしようという、意欲が欲しいなあと思います。月の13日に当たらせていただきましてです、ほんとに神様の願い、神の悲願の、成就する日と、言うように言うて下さるのですが、ね、どういうようなことを持って神様の願いが、成就する。神様の願いとはどういうようなことか。結局はです、ね、私自身が真の信心を、頂く以外にはないのです。神様の願いはそうなのです。私どもが真の信心を頂かなければです、神様の働き場というものがないんです。
昨日、福岡の麻生さんがお見えに出てきております。車の申し込みをしておったのが、おかげで、番号が決定いたしました。取り付けられるのは、来月早々らしい。その番号が、有難い番号であったとこう・・。55局、5、5局の、649という番号であった。もうそれを頂いてから、ほんと神様のおかげを頂いておる番号だなと、神様が下さった番号だなということを、まあ実感したと言うんです。ね、6、4、9、と言う番号。私その事を、おー、昨夜も、あー真神様の、求めたもうことはこの辺だなと、いうことをまあ感じたんですね。それはあの、私は、先生、無欲と頂きました。む、よ、くです。私はそこんところだけに焦点を置いて、( ? )、ああほんなこつそうね、っち言うてから私も、これはもう、あんたが欲の深いっていうしるしばいって私が言うてから、言ったことでした。あんたが欲が深いから、もうこの人はその、欲が、皆さんもご承知の通りの信心をいたしますがですね、神様がもうほんとに麻生たかしという氏子の上に、もう、十二分な働きをしたいという願いを持っておられるということを感じますですね。ある場合には、( ? )ですが、もうがばーっとその、(ひとこうえんのまま、たんしゃにつけてあるのを、?)盗難に遭われましたり、ね、集金の、帰りのお金をです、そのまま、落とされたりです、それはもうそういうようなことでもう、何回あったでしょうか。それでもそういう度に、やはり、信心は非常に熱烈になっていかれるですけれども、あんたが欲が深いから、神様が無欲になれ、あんたが無欲という意味じゃないだろう。と、まあいうことじゃろうねと言うて、まあお話をしたことでございますけれどもです、これはよく、まあ申しますがね、負けるが勝ち、とかね。損して得取れとか。損して得を取るとはどういうようなことだろう。一遍、あの人の前で損しといてから、後からがばーっといっちょ儲けちゃろう、そういうものではないようですね。そこに、私は本当のことが、あるんです。それを、真理と申します。損して得取れとか、ね、負けるが勝ちとか。無欲と言うことはもう大欲に通づることだということ。なぜって無欲になったら、もう神様が、もう限りないお働き下さることだけは間違いないですから。これはもう私自身の事、自分で思うのですけれども、私は無欲というわけではございますけれどもです、私は第一ですね、金銭欲がないことです。自分だからこれは、もう感心するくらいです。金銭欲、物欲、様々な欲を持っとりますけれどもです、まあ、誰よりも私は、この物欲と金銭欲が、私はもうないと言うわけじゃないですけれども、少ないと思う。第一もう、( ? )なんかっていうものはもう本とに、さらさらないと自分で思うくらいです。私が、こうやっておかげを頂いておりましてもですね、教会になりたいなという気持も持たなければ、教師の資格を頂きたいなという気持も持ちません。よく申しますですね、もう欲を外しておる者には勝てんち言う。だんだん負けるが勝ちということが分かるですね。欲を捨てておる者には勝てない。一番怖いのは、もう自分の命を投げ出してくるとが一番怖いって、いったような意味のことも申します。そういうところをです、初めからそうなれるということは出来ませんけれども、信心によって、それがだんだん自分のものになっていく。信心が自分のものになっていく。そこから、私はその無欲の状態と言うものが、自分の身にだんだんついてくるんだとこう、私は確信いたしております。例えば欲があっても、もう神様のことになら、( ? )と言うようなふうにだんだんなっていくでしょうが。ね、それが、神様だけのことではない、自分の(しゅうに?)一切のことの上においてです、無欲になっていけれると言うこと。いわゆる、一切が神様の御物であったと気付かせてもらう。言わば、神様の御物であると確信する。ね、私はその、電話番号のむよくということを、神様のお言葉として、麻生さんが頂いておられるということと同時にその、55局というのが、私はまた御神意だとこう思う。5と言うのは、業です、ね、ぎょう。いわゆるその、仏教的に言えば業が深いとこう言う。いわゆる、お道で言うならそれを、まあ少し言い間違いましょうけれども、めぐりが深いとこう申します。お道の信心はまず何と言うても、我々自身のです、めぐりの深さと言うものを、様々な事の中から生まれてこなければいけません。ね、めぐりの自覚に立てと言うことです。しかも5が5に重なっておるような、めぐりなのである。そこから私は思うんですが、今朝私、その事を、昨夜からもその事を感じさせてもらい、今朝もその事を思わせていただいておりましたら、あの、菊正宗のお神酒がお供えになっておるでしょう、中心に。その2段目にまた真下に、(しょうゆでん?)て言う、お神酒のお供えがあっておるでしょう。それから、今朝のご理解を頂いているんです。ね、椛目で言う、いわゆる菊の花の様な信心と、自分の心の中に頂いておるところの、菊の花のような、綺麗な、香りの高い、信心を私どもが目指して、椛目の(しんぼう?)になるように言うております。では菊の花の信心とはどういうだろうか。まあある意味合いではそれを、馬鹿と阿呆というかもしれません。ね、私は、菊ということ、信心を( ? )ということはです、神様に許されてから、頂くところの喜びだとこう、思うております。私どもが心の中に、信心の喜びというものをいよいよ深く、広く頂いていく。それには、私どもがです、もう喜べるものがないことに、実感が沸いてこない。それで、それが沸くところまで、沸くところまで、例えば修行する。何をわざわざするかと言うともちろん、修行不足ということもございましょうけれども、一番、邪魔をしておるのは、私はめぐりだとこう思う。有難い、有難いことは分かっておるのにその有難いという心を、何かが吸収してしまいよる。それは、私どもの心の中にあるその、業が、業の深さが、めぐりの深さが、そのめぐりが、私どもの喜びを蝕んでいく。そこで、私どもがその業を取らなければならないのであり、めぐりのお取り払いを願わねばならんのである。めぐりがだんだん無くなっていくことによってです、私どもが、喜びに、浸ることが出来るのである。その、言うなら業というのは、どのような状態の中から、それを、取り除いていくことができるかと言うとです、私どもが、無欲になる稽古をさせていただくことだと私は思うです。ね、そこに、約束されるのが、神様が与えて下さるところの、喜びである。いわゆる菊正宗である。その喜びの中にです、私は( ? )的な、おかげになってくると、ね。負けておっても有難い。騙されておっても有難い。損をしておっても有難い。そこに、損して徳を取らせてもらえれる、言わば負けるが勝ちと言うような、おかげにもなってくる。
信心をいよいよ自分のものに、する為に、その精進を私は、おろそかにしてはならない。その努力を惜しんではならない。言うならそこに、一つの楽しみを、感じさせていただけるような、おかげを頂かなければならない。
昨夜、長女が最近、修行生の方たちが次々と、様々な荒修行に、だーれも荒修行せんならん、って言うて奨励するわけでもない。むしろ、その荒修行より心の行のほうが大事だと私は言うておる。でもそこにやはり、已むに已まれん求める心と言うようなものがです、( ? )どうかせにゃおられない、というようなのが、そういうような様々な修行になっていくわけなんです。断食とか水行とかと言うようなことに、なってくるんです。ですから、私の家庭のほうでもやはり、(しゅの?)その修行をなさる方達が一生懸命ですからじっとしておられない。その、子供達まで、その修行の伴奏をさせていただくような、気持でと言うて、まあ断食される時には断食をお手伝いする。というように、先日から、ある、いわゆる荒修行しておられる方達のために、長女が、昼横にならないという修行を続けておった。昨日が(まんだん?)の日であった。御祈念終わって私、下がろうとしておりましたらこう出てまいりましてから、もういつもそうして修行させていただいた後にはです、何か知らんけれども、沸いてくるような喜びに、浸ることが出来るのですけれども、もう今度という今度は全然喜びが沸かない、っち言う。ですから、今度から、またこう言うような修行に入らせていただきたいから、どうぞお取次ぎをお願いしますと言うて、あの、お取次ぎを願うております。ね、例えば頂けないから、と言うてもうそれで、終えちゃいかんですね。それを私は押していくという信心が、私は大事だとこう思う。ね、これはまだ信心が足りんからだ、これはまだ修行が足りんからだと、ね、そこから、なら今まで、かつて頂いた事もないような、喜びというものにも頂けれる。ね、そういうようなことがです、いわゆる自分のものになっていく、ことによって、めぐりのお取り払いになっていくだろう、神様にお喜び頂けれる、信心とはなっていくだろうと。そこに、神様に喜んで頂けれるその、その喜びが私どもに反映してくる、めぐりのお取り払いを頂いていくということがです、その喜びを、せっかく神様に頂いたその喜びをです、何物かが吸収しておった、それが、業であった、めぐりであったと気付かせていただくときです、ね、その、めぐりのお取り払いをいただいていくという、おかげ。せっかく頂いた、例えばみ教えをです、帰りには忘れてしまう、何かが吸収してしまっておるわけなんです。自分の我情が我欲がです、もう、そのご理解を忘れさせてしまっておる。ね、ですから、この、吸収しておる、それを、せっかく頂いたものを、ほかのものと(おうてしまう?)と言うような、ことになっておる。それを、業であるめぐりであると、分からせてもろうて、めぐりのお取り払いを頂くことの為に、私どもが、無欲にならせて頂く稽古をさせてもらう。ね、おかげを頂かんならんから、と言うのではなくて、信心を頂かんならんから、と言うところから、始めさせていただく。しかもその、頂いた信心をです、金光様のそのお祝詞の場合のような、気持で、私どもがです、繰り返し繰り返し、自分のものにその、内容を、信心の内容というものを、頂く為に、自分のものにする為に、繰り返させていただける、と言うような精進が、成されていかなければいけん。ね、それこそ、私は、実意丁寧と言うのはそういうようなことではと私は思うです。頂いたものを大事にすると。それを、大事にするだけではない、自分のものにさせていただくというところにです、私はお道の信心というものが、あるように思う。お互いが、いわゆる菊正宗を目指すなら、神様はそこに期せずして、( ? )のおかげを下さるだろう。ね、無欲にならせていただいたということがです、これはもう私の、まあ一つの体験から、それを申しあげられるのですけども、まあ私ぐらいにでも、例えば、ああありたいこうありたいと言うその欲を外させていただいたら、もう神様が損をさせなければおかんという、働きがです、もう押し寄せてくるような思いがいたします。この事をもっともっと大きなものに、この事をもっともっと、垢抜けしたものにしていくところにです、神様の願いが成就する。それはどういうことでしょうか。小欲を捨てた者の上にです、ね、小欲を捨てると言うことは、小我を捨てると言うことはです、大我に通じるのであり、大欲に通づるのである。それはそのまま大欲そのものが、神様の願いである。神様の大きな欲、願いと言われるならばです、氏子の上に、自分の働きというものを、思う存分に、その氏子の上に現してみたい、と言うようなお気持がです、神様の心の中におありになるということ。言うならば、世界中の氏子にです、話しがしてみたい、と(かたしません?)と言う先生に、神様が自分の( ? )を打ち明けておられます。世界中の氏子に話しがしてみたい。世界中の氏子に、自分の思う存分の、働きと言うか、お道になっておられる、おかげというものを渡したい、というようなそのお気持が、神様のお気持であり、それが、神様の願いであり、13日と言う日は、そういうような意味でです、いよいよ神様の願いが成就する事のために、と言うことは私どもが本とに、信心を自分のものにする事のために、精進させていただくということに、繋がるのじゃないかというふうに思うのです。どうぞ・・・・。
2004 8 19 おおつぼかよたろう